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東京都港区の水道水で作る日本酒メーカーの杜氏は酒蔵の概念を変える革命児だった - メシ通

tsukuru.prelol.com

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東京23区唯一の酒蔵「東京港醸造」。

日本酒造りといえば郊外の広大な土地にある酒蔵をイメージしますが、東京港醸造が居を構えるのはオフィス街として知られる港区芝の路地裏。

もともとは取締役会長・斎藤俊一さんの父が住んでいた4階建てビルを改装した醸造施設で、約171平方メートルという狭小なスペースで日本酒「江戸開城」ブランドを中心に、あまざけやリキュールなどを造っています。

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▲4階建てビルを改装した醸造施設(写真提供/東京港醸造)

東京港醸造」が型破りなのは、それだけではありません。

日本酒造りに欠かせない仕込みのお水が、井戸水や湧き水ではなく、東京の水道水を使用しているのです。

常識を打ち破る日本酒造りを実践しているのは、代表取締役で杜氏の寺澤善実さん。

大手酒造メーカーで長年務めた後、斎藤さんの誘いで2009年に東京港醸造に転職。日本酒造りの全工程から、醸造施設の設計、醸造機材の開発までを一手に担っています。

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寺澤さんに、これまでのキャリアを振り返ってもらいながら、どのように現在のスタイルへ到達したのか伺いました。

日本酒造りをオートメーション化する端境期に大手酒造メーカー入社

──キャリアのスタートは京都・伏見の大手酒造メーカーだったんですよね。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤さん(以下、敬称略):はい。高校を卒業して新卒で入りました。中学生の頃から化学などが好きで、高校時代は微生物関係の勉強をしていたんです。それで高校卒業後は、お酒関係か、味噌、醤油などの発酵食品に携わる仕事に就きたいと考えるようになりました。

──小さい頃から食品製造に興味があったんですか?

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:実家が農業をやっていたんです。学校から帰ったら稲刈りの手伝いをしていましたし、ほかにもキャベツやタバコの葉も栽培していて、親の背中を見て育つうちに、自然と興味を持ち始めました。

──高校生で大手酒造メーカーを志望するのは珍しいんじゃないですか。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:明確にお酒造りをしたかったわけではないんです。ちょっと自分が変わっていたのは、通常だと就職なり進学するときって進路相談の中でやるでしょう。でも私はひねくれていたので、学校から求人情報を持って帰って、自分でめぼしい会社を探して付箋を付けていったんです。その後、進路指導の先生に間に入ってもらって、人事課の方にお会いしました。面接は私一人だと不審がられるので、親父にも来てもらっていましたけどね。それでたどり着いたのが伏見の大手酒造メーカーでした。

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▲1日の作業は午前6時頃から始まる。前日に洗米、限定吸水させた浸漬米を、あらかじめ温めておいた窯の中に入れる

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▲窯が設置してあるのはビルの4階

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▲約1時間10分かけて蒸しあげたお米を取り出す

──大手酒造メーカーで働いた期間はどれぐらいですか。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:伏見で20年間。その後、港区のお台場に醸造所ができるんですけど、そこに10年間いたので、丸30年間働いていました。

──伏見ではどういうお仕事をなさっていたんですか。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:日本酒造りの全工程です。大抵の方は酒蔵というと、地方の酒蔵が頭に浮かぶと思うんです。職人が、ほぼ手作業で日本酒造りをしている姿をイメージするのではないでしょうか。
でも大手酒造メーカーには研究者がいて、手作業を機械に変えたり、頭で考える部分をコンピューターにやらせたりするなど、効率よく日本酒造りをするための研究を重ねているんです。私はその仕組みづくりも担当していました。

──大手酒造メーカーでは労働力の大半を機械が補っているということですね。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:そうです。私が入社した1979年は日本酒の製造、消費量ともにピークの時期だったんです。それを支えるために、出稼ぎであるとか、たくさんの季節労働者を雇っていました。たとえば伏見だと、秋になると秋田新潟から、たくさんの杜氏さんが来て、春に帰っていくんです。ただ、高齢化が進んでいたので、将来を見据えて早く機械化しなければいけないという時期でした。

──日本酒造りをオートメーション化する端境期だったと。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:私が入社したときは、今まで人がやっていた部分を明確にして、機械での効率化を図って、安くておいしい日本酒を開発する始まりの頃でした。「合理的=簡単に造っている」わけではなく、地方の酒蔵が手作業でやっていることを機械でプログラム化しただけで、工程としては一緒なんです。日本酒を合理的に造るという意味では、東京港醸造でやっていることに繋がっています。

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▲蒸しあがったお米を広げて、手作業で攪拌しながら送風機で冷ます。部屋の温度は10度前後に保たれている

──出稼ぎ文化は今も残っているんですか。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:少なくなりました。昔は雪深い地方だと、漁業ができない、農業ができないで、地元では働く場所がなくて、冬は酒蔵に行くんです。それをとりまとめるのが杜氏で、いわば職人集団。杜氏は蔵人を何十人も引き連れて、いろんな蔵を転々とする。それを、さらにまとめているのが杜氏組合です。
時代は変わって、今は家の近くに工場ができたり、交通網も充実したりで、遠くまで働きに行く必要もなくなったんです。それに今は酒蔵も年間雇用が一般的です。実は私も出稼ぎをしていた時期があるんですよ。

──でも大手酒造メーカーを辞めて、そのまま東京港醸造に転職したんですよね。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:東京港醸造を始めるにあたって、すぐに酒類醸造免許を取得できるわけではないので、ここに移ってからの数年間は、夏から秋にかけては免許取得の準備をしたり、新しい企画を立てたりして、冬から春にかけては蔵人として、地方の酒蔵で住み込みとして働いていたんです。

酒蔵では理論的なことが置き去りになってしまう

──伏見時代は日本酒造りそのものにも携わっていたんですか?

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:そうです。自由にさせてくれる会社だったので、いろんなテーマを研究者と相談して探りながら日本酒造りをしていました。大手酒造メーカーは一つの工程を3年間ぐらい担当した後に、違う工程の担当に異動となり、だいたい10年ぐらいで全工程を経験できるんです。酒蔵だと全工程を短いサイクルで経験します。

──大手酒造メーカーだと長年働かないと全工程をマスターできないってことですね。酒蔵にはないメリットはありますか?

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:研究者は理にかなったことを解析していくのが仕事ですが、一つのテーマに向けて、どんどん突き詰めていきます。その考察を私らがするんです。同じことを繰り返しながらも、闇雲にやるのではなく、立証の中で物事が進む。微生物の扱い方や管理方法なども、そこで学びました。なので日本酒造りというものを科学的に理解することができました。それが酒蔵だとテクニックになっちゃうんですよ。

──テクニックというと?

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:具体的な例を挙げると、形よく麹を作れるとか、そういうことばかり上手くなってしまい、全体が見えづらくなって、理論的なことが置き去りになってしまうんです。

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▲麹室(こうじむろ)という部屋で、蒸したお米に麹菌を蒔いて、まんべんなく行きわたらせる「種付け」という作業

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▲麹室の温度は38度前後に保っているが、麹の状態を見ながら細かな温度調節をする

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▲麹室に入れてから、こまめに手入れをしながら約52時間かけて米麹を造る。手入れを怠ると、米麹が一体化して均一な大きさにならない

お台場の小さな空間で日本酒造りの全工程を行う試み

──お台場の醸造所に赴任したのはいつですか?

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:2000年です。お酒の国内消費量で、国酒(※日本酒と泡盛を含む焼酎の総称)の占める割合が10%以下に落ち込んで、生産量も減る一方だったんです。そこで、なんとか日本酒を盛り返さないといけないと立ち上げたのが、お台場の醸造所でした。造りたての日本酒がテイクアウトできる上に、京料理にこだわったレストランやショップも兼ね備えた醸造所で、酒蔵が街中にできるという画期的な企画だったんです。

──お台場の醸造所はどのぐらいの広さだったんですか。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:約52平方メートルだったので、東京港醸造の半分以下ですね。ただ今思えば時代が早すぎたんですけど、その価値観に気付いてもらえなくて、毎年莫大な赤字をたれ流し続けました。

──大きな敗因は何だったんでしょうか。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:お台場は山手線の外側にあって、何か目的があるから行く場所です。土日祝日に来る地方からの家族連れ、もしくは修学旅行で来る中学生や高校生などの観光客がメインなんですよね。その客層で「新しい日本酒」を提供するのは感覚がずれていますよね(笑)。そういう状況の中で、最先端の酒蔵を預かった私にできることは何かを考えて、小さな空間で日本酒造りの全工程を行いながら、いい日本酒を造るにはどうすればいいのかを日々研究していました。

──よく会社も存続させましたね。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:会社としては巨額の設備投資をして、大風呂敷を広げてしまったので引くに引けなかったんですよね。そんな中、2006年に斎藤会長から声をかけられたんです。同じ港区の商店街連合会に加盟していたので、それを通じてお台場の醸造所の取り組みを知って、「かつて家業だった酒蔵を再建したい」というご相談でした。

──東京港醸造のホームページによると、斎藤会長は1812年創業で1911年に廃業した酒蔵「若松屋」の7代目にあたるそうですね。

tokyoportbrewery.wkmty.com

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:そうです。先祖の家業を再建したいという思いを長年にわたって持ち続けていらっしゃって、儲からなくてもいいから小さな醸造所を造りたいというお話だったんですけど、お台場の壊滅的な経営状況を見てきたので、「そんなの上手くいくはずがありませんよ」と、ずっとお断りしていたんです。
そしたら、お台場の醸造所が封鎖されることになって、斎藤会長から「共同で港区芝に醸造所を作っていただけませんか」というご提案をいただきました。

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▲斎藤会長(右)と談笑する寺澤さん(写真提供/東京港醸造)

──斎藤会長の思いは本当に強かったんですね。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:その情熱に私も共感して、会社に掛け合ったんですけど、「お台場で散々な思いをしたのに、港区芝に移ったところで何も変わらないだろう」と聞く耳を持ってもらえませんでした。そこで退職を決意して、新天地でチャレンジしますと会社に伝えました。会社からは「3年間は給料を払う。どうせ失敗するに決まっているから、いつでも戻れるように会社に籍は置いておけ」と言われたんですけど、辞める決意をしました。

──自ら退路を断ったんですね。

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▲タンクに米麹、蒸米、乳酸菌、酵母菌、仕込み水を仕込んで「酒母造り」(※酒母とは日本酒を醸造するために培養された酵母のこと。酵母がアルコール発酵を促す)。このタンク一つで造られる日本酒の量は500~550リットル

条件さえ整えば広いスペースは必要ない

──日本酒造りというと、広大なスペースに大きな樽やタンクがたくさん並んでいて、大勢の職人が大量の仕込みをしているイメージが強いんですけど、コンパクトにしても味に変化はないんですか?

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:条件さえ整えてあげれば、広いスペースは必要ありませんし、樽やタンクが大きくなくても問題ありません。人間だって大きなマンションじゃなくても、住居スペースの環境さえ整っていれば快適じゃないですか。それと同じ考え方です。

──広大なスペースの環境を完璧に整えるのは難しいですしね。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:季節によって温度も湿度も大きく変わりますが、その影響を受けにくいのは小さなスペースで、コントロールがしやすいんです。一方で大きいスペースのメリットは「大量生産=安く提供できる」ことです。消費者にとってリーズナブルなことは、日本酒にとって大切な要素ですからね。

──環境以外で日本酒の味をコントロールする上で重要な要素は何ですか?

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:お水やお米など、いろいろな要素がありますが、大きいのは麹菌と酵母菌です。どんな日本酒を造りたいのか明確に目標が決まっていたら、それに合わせて麹菌と酵母菌を選定していきます。上手くいかなかったら仕込みの途中でも、麹菌や各工程の時間を変えることで軌道修正することもできます。

──極端に言えば、どこの酒蔵の味も再現できるということでしょうか?

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:理論的に不可能ではありません。ただ同じ杜氏が仕込んでも、環境が変われば同じ日本酒は作れません。酒蔵それぞれ道具も違いますし、周りのサポートも影響します。それでも目標の味に近づけることが、私らの仕事ですね。

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▲仕込み水の温度も季節や環境によって変化させる

東京の水道水は日本酒への使用適正が高かった

──日本酒造りは水質も重要だと思うのですが、どうして水道水に行き着いたのでしょうか。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:お台場で醸造所を始めた頃は、京都からお水を運んでいたんです。当時は水道水で造る発想はなかったですからね。ただ途中から、せっかく東京にいるんだから、地産地消で造ってみようと考えたんです。そこで、八王子のお米を買って、お水はどうしようかと考えたときに、東京の水道水はどうなのかと思って、使用適正があるかどうか研究室に出して確認を取ってみました。そしたら適性が高かったので、試しに使用してみたら京都のお水に比べても、なんら遜色がなかったんです。なので東京港醸造を立ち上げるときには、最初から水道水以外の選択肢は頭になかったです。

──確かに何年も前から「東京の水道水はおいしくなった」と言われるようになりましたよね。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:東京の水道水は高度浄水処理が施されていて、ミネラルウォーターに近いお水が出る仕組みになっているんです。降水量やダムの貯水量で水質も変化しますが、それを様々な工夫で調整しています。なので自然の湧き水などよりも、安全が保証されているんですよ。

──軟水、硬水でも日本酒の味は変化するんですか?

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:変わります。カルシウムやカリウムが多く含まれる硬水は、酵母菌の活性度が強くなって、発酵の日数が短くなるので、辛くて男型の日本酒(辛口)になるんです。軟水だと、発酵が緩やかになるので、甘口のお酒になります。東京の水道水は中硬水ですね。

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──コンパクトな日本酒造りだと小回りが利いて、いろいろなことが試しやすそうですね。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:まさにそうです。コンパクトだと数をこなせるので、技術者として経験値が上がるんです。研究者の場合は試験管の中という小さなロットでやるんですけど、そこで得られた結果で実際に日本酒造りを行っても、大きく条件が違ってきます。うちだと、それを製品レベルでテストできるのが強みです。
私はよく日本酒造りを自転車にたとえるんです。通常の日本酒造りはママチャリで、ライト、買い物かご、電動など、いろんな機能が付いていて便利なんですけど、速く走れない。でも私の日本酒造りはロードバイクで、余計なものを一切省いているんです。不便なことも多いですけど、速く走れるんですよね。

──小さいからこそ、やりたいことを自分の裁量でやれるんですね。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:ただ杜氏志望でうちに来た方には、見学でもいいから一度大手酒造メーカーに行くことをすすめています。オートメーション化によってスイッチ一つでできる工程も多いですが、安価な日本酒を効率よく造るために、どれだけのノウハウが蓄積されているのか。それを開発するまでの試行錯誤が頭にあると、自分が日本酒造りをするときにも活きてくるはずです。

若い技術者に自分のノウハウを教えていきたい

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──2020年8月3日、東京駅構内にできた「東京駅酒造場」では、開設指導を担当しているんですよね。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:2018年12月に、以前からお付き合いのあったはせがわ酒店さんから「東京駅構内でお酒を造りたいので協力してください」という連絡があったんです。それから丸2年かけて準備を進めて、2020年9月14日にはコンパクト型の日本酒造りを実践するための要、製麹機の構造で特許を取得しました。

──「東京駅酒造場」には、どなたが常駐しているんですか?

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:東京港醸造で修業を積んだ、はせがわ酒店の社員が責任者をしています。これからの目標としては、多くの若い技術者に自分のノウハウを教えていきたいんです。もう私も長く現場にいることはできません。引退する前に何十年もかけて培ったものを、1年とか短い期間で伝えたいんですよね。失敗した中で得たものを細かく説明して、次に繋げてほしいんです。

──今後は後進育成にも力を入れていくということですね。

f:id:exw_mesi:20201127011940p:plain寺澤:若い技術者を支援するために2019年に、「東京港醸造株式会社」という会社も起業しました。日本酒造りのテクニック、微生物を扱う方法、仕入れ、免許取得の申請、帳簿管理など、自分が積み上げた技術を無形資産として教えていきたいです。
先日、高校生の女の子がお母さんと一緒にお見えになって、「杜氏になりたいんですけど、どうしたらいいですか」と相談を受けました。それは嬉しかったですね。

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寺澤さんは地方の酒蔵も、「東京駅酒造場」のような施設を新幹線の停車駅などに造れば、町おこしの一助になると考えています。山小屋に酒蔵を造れば、世界中から人が集まるようなスポットになるはずとも考えています。

また2025年に大阪で開催予定の「日本国際博覧会」に出店して、世界中に日本酒を発信するために奔走しています。

日本酒をこよなく愛するからこそ、日本酒の未来を明るいものにしたいからこそ、寺澤さんは革命児として新しい道を切り拓き続けているのです。

撮影:丸山剛史

tokyoportbrewery.wkmty.com

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December 11, 2020 at 04:00AM
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