「特に食いしん坊でも、料理に興味があるわけでもなかった」、と自己評価する31歳の岡根谷実里さんが、世界を巡る「台所探検家」になったのは、料理と食卓の「力」を発見したからだ。2017年から2020年初頭までの3年余りで巡った中から、約16カ国のルポを収録したデビュー作が、『世界の台所探検』(青幻舎)である。行先は、インド、タイ、ブルガリア、キューバ、オーストリア、ウクライナ、スーダン、パレスチナなど。
岡根谷さんが満足に話せる外国語は英語だけで、現地の言葉は「おいしい」「ありがとう」などの片言のみ。それなのに、同書は食卓から家族の関係や社会情勢を読み取り、レシピも紹介している。岡根谷さんは、クックパッドの社員でもある。台所探検は、自腹で行う個人的なプロジェクトだが、その旅は会社の仕事に結びつくなど、さまざまな広がりを見せ始めている。なぜそんなことになっているのか? そもそも彼女はなぜ、世界の台所を探検しようと思い立ったのだろうか?
旅の原点は育った長野県。海がない町のおいしかった魚料理
岡根谷さんはもともと、好奇心が旺盛な子どもだった。長野市の祖母、両親・兄・妹の二世帯住宅で育ち、大学進学と共に上京。やがて父も転勤で東京に来ることになった。現在は両親と妹と岡根谷さんの4人が、東京の一つ屋根の下で暮らす。
子どもの頃、祖母と母がそれぞれ作った料理がたくさん並ぶテーブルで、食事の時間を楽しんでいた。当時、料理は手伝いをする程度だったが、今は、世界の台所で聞いてきたレシピをもとに、週末に家族や友人に料理することがある。
オーストリアで学んだチョコレートケーキ、レーリュッケン。スーダンのオクラたっぷりの煮物、バミヤ。よく作るのは、イスラエルのチキンスープと、パクチーをたっぷり加えて煮たモロッカンフィッシュ。
「チキンスープはもともと、貧しくていい部位を買えなかった東欧のユダヤ人が、鶏の首肉を使って煮込んだもの。飲むと体にエネルギーが満ちてくるように感じられる料理だから、『ユダヤ人のペニシリン』と呼ばれています。日本で私は鶏ガラを使いますが、この料理を食べると、子供の頃に食べていた棒鱈とサトイモ、大根の煮物を思い出すんです。長野県には海がないので、海産物は保存食が多くて、当時はお手頃価格だった身欠きニシンもよく使いました。モノがない中でもおいしい料理は作れる。そのたくましさが、ちょっと好きなんです」と照れ臭そうに笑う。
料理の力を実感したケニアへの旅
高校の地理の授業で、「ベドウィンの人はナツメヤシという食べものを食べている」など、未知のエピソードを聞いて世界の広さを感じた。大学生になると、「バックパックをかついでフィリピンのスラムや、バングラデシュの線路上で暮らす人たちに出会い、困難な現状を含めて授業で習ったことが現実として浮き立ってくる」実感があった。
土木工学を学び、インフラ整備の技術者として国際貢献をする目標に向かって、ウィーンへ留学していたときに国連インターンシップへ応募。ケニアの大豆加工工場の立ち上げ事業に参加した。ところが、ホームステイ先の農家があった村に大きな道路が建設されることになり、立ち退きを命じられる人が出てくるなどして一気に騒然となった。
開発が、誰かの犠牲のもとで行われる現実に直面した岡根谷さんは、進路に迷い始める。一方で、「道路建設について怒ったり悲しんだりしていても、夕食の時間は必ず皆が笑顔になって、食卓を囲む。そしてその食事は、自分たちの手で生み出せる。何でもないものを楽しめるようにできる」料理の力に目覚める。「大げさかもしれませんが、世界中の誰にでも平等に与えられた、笑顔になる方法と思います」と岡根谷さん。そして、クックパッドを就職先に選び、仕事に慣れた3年後、「世界中の料理を作る人に会いたい」と台所探検を始めている。
会社員と台所巡りの両立。思いがあれば言葉は伝わる
2カ月か3カ月に一度、10日から2週間ほどかけて1から数カ国巡る旅は、有給休暇を使って実施する。会社員の仕事と両立できるのは、個人の裁量が大きいIT企業に勤めているからだろう。家庭料理を事業領域とする会社の方針と共通項も多い。社内ブログで、出会った世界の家庭の台所の記事を上げていたこともあり、「そういう興味を持ち情報を発信する人、という認識を職場の人たちに持ってもらっていた」ことも、理解を得られた要因と考えられる。
探検先を紹介してくれる人は、仕事で知り合った人から学生時代の友人までさまざまだ。「知り合いの知り合いの知り合い、で紹介してもらうことも。そのつもりで生きていると、実は意外と遠いと思っている世界とも、つながりがあったりするのです」と岡根谷さんは言う。
気になる言葉の壁は、さほど問題ではないようだ。「伝えようという思いがあれば伝わります。込み入った話をするときはグーグル翻訳も使いますが、目の前に人がいるのに機械を使うのが、どうにももどかしくて慣れません。『おいしいね』という感覚は国を超える。料理という共通言語で、会話ができてしまうと感じています」と岡根谷さん。
トラブルも経験がない。「町を歩いていると、自分の国を訪れたお客さんとして、もてなしてもらえる。よくされすぎちゃっていいのかなと思うこともあるほどです。先入観にとらわれず人として向き合うと、宗教や国籍に関係なく、人として大事にしてもらえる。台所の片隅に置いてもらえて、存在を許される感じ」と岡根谷さんは、ありがたそうに言う。
ブルガリアの旅が出張授業にも。業務と結びついたライフワーク
台所探検はまもなく、会社の仕事とも結びつき始めた。一つは、各地の学校に出向いて行う出張授業だ。例えばブルガリアの話はこんな風に進める。
まず、「ブルガリアと言えば?」と聞くと「ヨーグルト」と生徒たちが答える。そのヨーグルトをブルガリアの人たちは、スープにして飲む。それは「日本の味噌汁と同じ」、と説明すると生徒たちの関心が高まる。
「気候が涼しいブルガリアでは酪農が盛んで、日本人の3倍ヨーグルトを食べます。しかし生産量は年々減少し、現在は30年前の半分以下。それは社会主義が崩壊したからです。社会主義の時代は、食べ物を全員に行き渡らせることが重要でした。そこで、肉よりたくさん生産できるヨーグルトが、国民食として推奨された。しかし、社会主義の崩壊によって共同農場が解体され、ヨーグルトの生産量も減ったのです」とよどみなく語る。
日本の味噌汁との共通点は、「日本では田んぼの畔に大豆が作られ、その大豆を発酵させた味噌で味噌汁が作られてきました。冷涼な気候のもと、たくさん生産される牛乳を発酵させてヨーグルトを作り毎日スープを作るのと、たくさん穫れる大豆から味噌を作って味噌汁にすることが、同じように見えてくるからです」と説明する。
旅で観てきた台所の背景については、さまざまな文献に当たって調べる。そして文化の中に位置づける。単に「おいしかった」「楽しかった」で終わらせないのが、岡根谷さんの台所の旅だ。
出張授業を始めたきっかけは、社会人向けの「世界一おいしい社会科の時間」というイベントだ。参加した埼玉県の中学校教師と意気投合し、その人が受け持つクラスで出張授業を行ったのが最初である。
2018年の当時は、クックパッドが「料理そのものの価値を発見し伝えていくことに力を入れ始めたタイミング」だった。「学校の出張授業の活動は、会社の業務として発展し、現在私は、『料理から考えるSDGs』などのテーマで授業をしています。行先は中学高校が中心ですが、小学校や大学もあります。首都圏の学校が中心でしたが、今年はオンラインになったこともあり、対象は全国に広がっています」と岡根谷さんは言う。学校が学外の人を招いて生きた社会体験を伝えようとする潮流と、クックパッドの取り組みが合致したのだ。
旅をきっかけに広がっていく人間関係。岡根谷さんの体験が意味するもの
ブルガリアでは、自家製ヨーグルトと共にもう一つ自慢された保存食があって、それは「リュテニツァ」という。パプリカを皮が真っ黒になるまで焼き、一晩置いてから皮をむき、茹でたニンジンとトマトと共にピューレ状にして煮詰めたものと、調味料を一つの鍋に入れ、さらに煮詰めて作る。冬中、パンに塗るなどして食べる。
このおいしいが手間がかかる保存食はコロナ禍、忙しい日常を送る人たちに手作りの温かさを届けたい、と考えていた岡根谷さんの知人で、長野県の「ハウスサンアントン ホテル&ジャムファクトリー」のシェフ、片桐健策さんと共に生産者を探し、共同開発した。
そして活動は本にもなった。『世界はほしいモノにあふれてる』(NHK)など、さまざまなメディアでも取り上げられている。
個人的な活動がさまざまな広がりを見せているのは、もともと岡根谷さんが海外に目を向けた動機に、国際貢献があったからだろう。そして、多くの人から共感を得られるのは、岡根谷さんが旅を通して学んだ一番大きなことがおそらく、人と人がつながるための知恵や、生きていく力を養う方法という普遍的なものだからなのではないか。私たちはなぜ世界に憧れ、人と出会おうとするのか。旅することが困難な今だからこそ、しみじみと感じる旅の原点がここにある。
January 13, 2021 at 09:00AM
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