ロシア軍のウクライナへの侵攻で多くの子供たちが犠牲になり、学校施設が破壊されている。戦争は弱者を容赦なく苦しめる。第二次世界大戦でも多くの戦死者の陰で、父親を知らない子供たちを残した。両親を亡くして孤児となる幼子も少なくなかった。今回は戦争で親を亡くした子供たちの写真を集めると共に、父親を知らずに戦後を生きた女性に話を聞いた。【松田幸三】
福岡市中央区の城戸順子さん(79)の宝物は父邦夫さんが1943年の初節句で買ってくれたひな人形だ。「お内裏様とおひな様だけですが、翌年は三人官女、その次の年は五人囃子(ばやし)と増やすつもりだったと思います」
だが、邦夫さんは陸軍に召集され、その年の10月、当時住んでいた東京で家族写真を撮影した後、実家のあった福岡県勝浦村(現福津市)に戻り、博多港から出征した。
中国で従軍したが、マラリアにかかり、44年12月に長沙で戦病死した。32歳の若さだった。城戸さんには父親の記憶はない。唯一、母親が大切に保管していたひな人形が形見の品だ。
父が戦病死した後、城戸さんと母、弟の3人は母アサノさんの実家の福岡県津屋崎町(現福津市)に移った。そこで祖父母らと暮らした。
「父親が戦死した子供は結構いました」と城戸さん。小学生になると母が福岡市内の小学校教師になるのに伴い、今の中央区警固に移った。アサノさんが一家を支えた。母の帰宅は遅く「私がご飯を炊いて母の帰りを待った」と城戸さんは語る。
街で小さな子供がお父さんと手をつないでいる姿を見ると「楽しそうだな」と羨ましかった。「亡くなったことは分かっているのにラジオの『尋ね人』を聞いていました。もしかしたら、父が私たちを捜しているかもしれないと思って」
父親のいない家庭は母親が生活の選択を迫られた。「お母さんが内職したり、行商したり。父親の弟と再婚するというお母さんもいましたよ」
ある時、城戸さんは母親に聞いたことがある。「なぜ再婚しなかったの?」。母はほほ笑むばかりだったという。
高校生となり、進路を考えた時、「就職なら父がいないとハンディがあるかも」と思った。自立した道を歩むために福岡学芸大(現福岡教育大)へ進学した。「学費が安かった。大学のクラブで仲間たちと話していると、半数が戦争遺児と分かりました」
卒業後は福岡市内で小学校教師を務めた。
「私は恵まれていた方でしょう」と話す。「両親を亡くして孤児になった子供もたくさんいました。戦争で多くの子供たちが犠牲になります」
今、ウクライナ戦争に心を痛める。「ウクライナ兵でもロシア兵でも戦死すると、多くの父親、母親を知らない子供を作る。戦争を一刻も早く終わらせてほしいです」
◇
6月11、12日に福岡市東区馬出の福岡県教育会館で開かれる第12回平和祈念資料展(福岡県退職教職員協会福岡支会など主催)で城戸さんは父の形見のひな人形と家族写真を展示し、戦争が子供たちに及ぼす影響を語る。
May 18, 2022 at 03:45AM
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